155 常に「格付け」する国。

その上、わたしたちが今「歴史」や歴史上の人物としている人たちも資料に基づいているものとは思いません。源頼朝武田信玄など肖像画ですら違うと言われていますし、聖徳太子に至っては実在したかどうかという話まであります。後世の物語や二次資料を歴史上の人物として疑いを持たない傾向にあります。秀吉が中国人だったという書物もあると先に書きましたが、孝明天皇西郷隆盛など明治の人物ですらその肖像画はあやふやなものがあるのですから、「歴史」は小説家が書く創作のようなものだという思いも走ります。神話も民話も稗史偽史もみな都合のいいようものを「歴史」にしているという印象を持ちます。それは権威付けのために時の権力者が誰でもやることですからしかたがありませんが、それをただ鵜呑みにするというのも歴史観を変えるということになります。わたしがこう言うのも全ては歴史から学ぶからです。それに日本は中世以降家系図作りが盛んで何事でも血筋を重要だという風潮があります。「貴種」になりたがろうとするのです。そのことは今でもそうですから天皇家の存在が崇められるのでしょう。常に「格付け」をして物事や人間を見ているのがこの国のような気もします。今日皇室の結婚問題もそのことが底流で影響しているかもしれませんが、信長でも秀吉でもあるいは光秀でも家康でも、彼らが自ら作った系図からわたしたちは人物を見ています。戦後、「民主主義国家」になった令和のこの時代でも、国家の権威作りのために天皇費・皇族費皇室費宮内庁費などと多額の税金が投与されています。政治家への政党助成金から見ればはるかに生きたお金だとも考えますがそうは思わない人々も多くいます。今回の皇室の結婚のための「人間宣言」を思えば国民の敬う感情は鈍化していくでしょう。すでに若者は関心が薄いようですしその実情を公にしなければ一層崇敬を失うということにもなるはずです。

154 歴史は「接ぎ木」。

わたしは日本の「歴史」は『日本書紀』が書かれたことによってあるいは明治維新によって大きく変わったと考えている人間ですが、それは敗戦後「民主主義」という言葉によっても変わったと思っています。それがいいこととか悪いことと言うことではなく、日本の「歴史」に大きな断層ができたと感じています。また「歴史」は接ぎ木のようなものだとも考えています。体制や権力が移行すれば「歴史」も変わるということです。そういう意味でも今日の体制は維新以降に作られ、敗戦で改めて「歴史」は作り変えられました。天皇は国民の象徴としての存在になったのです。その源になっているのが伝統や文化だと思っていますので、そのことを喪失した時のわたしたちの気持ちは甚大なような気がします。それはフランス革命ロシア革命で「王朝」がなくなった時の人々の心を思うとわかります。革命は接ぎ木ではなく焼き畑農業のようだとも思っています。なにもかも焼き尽くして新しい芽を育てるというふうにです。日本はそのことをフランスやロシアと逆にやったという気がします。「王政復古」も「維新」もそういう言葉です。武士の支配から庶民の「民主主義」に行かず、天皇のほうに権力を集中させたのが明治時代だと考えています。戦争に負けて初めて庶民に多少の「権力」が与えられたのが、今の日本の「民主主義」だと見ています。それにわたしは勝者の言葉は信用していません。自分たちの正当性や優位性を文字に刷り込むと考えているからです。その最たるものが『日本書紀』ではないかとも穿った見方もしています。それゆえに『稗史』や『偽史』のほうに「正史」があるのではないかと思い神社や島を巡って一人で愉しんでいるだけです。しかし新しい古文書でも見つかれば別ですが「歴史」はやはり今日でも古い文字を持つ『記紀からしか下って行けないのも事実です。

153 国家造りには共同幻想が必要?

それでもわたしが天皇家を必要だと考えるのは伝統や文化の継承者としてのことです。あくまでも国民のための天皇家であって天皇家のための国民であってはいけないと考えます。そうなれば戦前の立場に戻ってしまうのではないでしょうか。そのことは政治家にも言えることで国民のための政治家であって、政治家のための国民になってはいけないということです。国家のための国民ではなく国民のための国家であるべきだと考えます。そうならなければいずれは全体主義や独裁政治に傾いていくと思っています。実は「万世一系」という言葉も明治から表立って使われ出した言葉です。大日本帝国憲法第一条に「大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス」とあります。天皇という言葉と同じように大日本帝国憲法に定められたものですが、今日、教育が進み本気でそう思っている人は少ないでしょう。また敗戦によって多くの言葉に規制がかかり口の端に乗せる人が少なくなっていますが、維新後の国家造りに登場した言葉であることは間違いないはずです。戦前までの教育では神話も歴史になっているのですから、わたしたちがそう思い込むのも無理のないことです。二千年も続いている家系だとは誰も思ってはいないでしょう。そこには教育の恐ろしさがあります。後でもっと詳しく述べますが、それでもわたしは積極的ではありませんが支持します。無条件に皇室を崇拝しているわけではありませんが、今日でも万世一系共同幻想がわたしたちの精神の支柱になっていると考えている人々がいるからです。その権威作りは国家として大変なものですがこの体制を国民として誇りにしている人々もいます。そしてこれらのを考え世界を見渡せば、多くの国が権力や政治のために歴史を作り変えているという気もしてきます。日本も敗戦によってまた塗り替えられたということになりますが、革命や血統で政治が受け継がれていくと「歴史」は彼らの権力や権威のために変容・変質していきます。

 

大衆は付和雷同。

わたしも含めて「大衆」というのは怖い。知識が乏しくて個人の感情でものを言うことほど怖いものはない。大衆は常に騙され煽動されて間違った道に進まされる。テレビが出てきてからとくにそうではないか。若いタレントや芸人が悪いとは言わないが影響力を考えているのだろうか。信念がないから付和雷同に陥る。皇室問題を見ているとその問題よりも怖くなった。

152 歴史も矛盾で成り立っている。

それでも自分でも理解できない感情に翻弄されて書くというのが小説家のような気がします。小説は人がなんと言おうが書きたい人が書き、書かずにはいられない人が書くものだと感じます。どんなジャンルでも同じことでしょう。蟻地獄に入り込んだら腹を決めて精進するということになるのではないでしょうか。少し大げさに言いますと簡単に諦めたり自分が納得いくまでやらないと、人生を棒に振ったり自死したりするのではないかと想像します。病気でなければ死ぬほどの絶望でもないようにも思えます。死ぬくらいならもっと頑張ればいいという気もします。時間をかければ人ができることは自分もできる、自分ができることは人もできるということになるとも考えます。わたしが十年以上もぼつ原稿を書き続けそれでも手放さなかったのは、彼のようになりたくないと思ったからかもしれません。やめればそこで人生が断ち切れると怖がったのかもしれません。わたしはそのことを才能があったあの男性や身近で亡くなった人たちから学びました。そしてそのことは個人の小さな人生の歴史も国家の歴史も同じことだと考えていますが、歴史「を」学ぶではなく歴史「から」学ぶというのが個人でも国家でも同じことだと考えます。それだからこそ特に「正史」とされる歴史に嘘や捏造、隠蔽するものが多くあれば、わたしたちは歴史から学ぶというよりも逆に間違った方向に判断して進んで行きます。またそういうことがありすぎますが、それは新しく体制を作った勝者が自分たちのことを殊更に過大評価したり都合のいいように糊塗してしまいます。維新以降の歴史を見れば何百年も実際の政治や統治に関わっていなかった天皇が、国家の中心に再び置かれ今日の「正史」がありますが、逆の立場から見れば相当に無理な解釈もあり綻びもあります。

151 「余技」で成り立つ世界はなし。

また書くことは多くの時間が必要となります。時間があるからといって簡単に書けるものではありません。行きつ戻りつして書き上げたとしてもその作品が陽の目を浴びるということもありません。むしろ徒労に終わるほうが多いものです。断言しますが片手間で決してできるものでもありません。そういった世界にミケランジェロがいるとは思えません。彼らのように工房システムで手分けして書くという世界もありますが、そんなことをしてまでなぜ書くのかという気持ちにもなります。それは売るための商いですし、会社組織の出版社の儲けや自分の名声のためとしか思えません。「お話」ばかり書くようになったわたしが言うのもおかしなものですが、そこには一生を賭けて人生を生きるということからは遠くにある気がします。有能な職人世界や「芸術家」の領域とは違うようにも感じます。自分の才能と能力を信じてこつこつと頑張るというところにその人の思考や意識が表現されてくるのではないかと考えます。もちろん才能のある人を排除しようとする論法ではなく、これだけ自殺者の多い世界で有名無名に関わらず全国には一生書き続けている書き手が多くいます。それなのにテレビで顔が売れたからとかファンクラブの仲間がたくさん買ってくれるからというだけで、書いたというものではない気もします。あれもできるこれもできるという人が書いたもので、時空を超えて読み継がれているものがあるのかというと甚だ疑問です。じゃあおまえにはそんな作品があるのかと問われますと、もちろんないのですから偉そうなことは言えないのですが、生半可なことで蟻地獄に入って行くと残りの人生がもったいないということにもなってきます。カフカでも宮沢賢治でも生前には一冊の本もありませんが、死後光り輝いてくる作品はいくらでもあります。あのゴッホもそうでしょう。その上悲惨なことにもなりかねませんので、安易に思い込むのはどうかという思いにもなります。それに毎年夥しい書き手が出てきて、出版社がずっと面倒をみるということはありません。出版社も会社で利益集団ですから売れなくなれば淘汰されるのは当然のことです。

150 自ら蟻地獄に入りたがる人々。

ながく小説を書いてきて作家には自死する人が多くいると知りましたが、わたしの周りでも例外ではありません。それは常に一人でいて孤独に打ち克たなければいけない仕事だということと、いい作品を書いたとしても人の評価は別だということです。それでもなぜ続けるかということは本人もわからないのではないかと思います。音楽や絵画、将棋や囲碁またいろいろな分野でも同じことで、人様から見れば摩訶不思議な世界だという気もしてきます。それは恋愛の感情にも似ている気がします。わたしは自分の短い人生の歴史の中で諦めてはいけないということを彼から学んだ気がします。諦めるにしても自分が納得するまでやってみる、最後は自分で結論を出すがそれまでは他者の判断に委ねると決めました。多芸と余技は違うという気持ちも生まれました。寿司屋なのに鰻も出す。あるいはラーメンも蕎麦も出すというお店はいくらでもありますが、一芸に秀でることとは少し違う気がします。たとえばタレントや漫才師、人気のある女優が小説を書く人たちがいますが、それは書くというより出版社の経済的事情もあり書かされているという気もしてきます。心血を注ぐということは余技と違うという思いにもなります。また一冊や二冊は編集者の手を借りて書けたとしても、ずっと書き続けていくということは大変なことだと思います。またなぜ自分が摩訶不思議な感情に支配されて書くのかと思案しますと、自ら蟻地獄の中に入っていくようなものだという感情も生まれます。有名になりたい、人に憧憬の目を向けられたいと願うものとは違うと思います。小説を本気で書きたくなればそれまでの仕事を辞めて打ち込む人もいますが、書き続けるということはそうならざるをえないところもある気がします。書くという魔力や魔物に憑りつかれてしまうのです。