106 組織は内側から瓦解する。

しかし歴史は太平洋を行き来した勝海舟のことばかり取り上げられていますが、その彼は艦長でありながら航海術の知識は乏しく船酔いばかりしていて艦長室から出てこられず、アメリカのブルック大尉や乗組員の手助けを受けて後悔をし続けたと彼や福沢諭吉の日記には書かれています。テレビや映画とはずいぶんと違います。その後、小栗はアメリカのブキャナン大統領に会い、通商条約批准書を交換しています。それからヨーロッパを回り文明の違いを実感して戻ってきます。開国主義は彼のほうだったのです。岩倉使節団は明治四年(一八七一)のことで、小栗が使節団のリーダーの一人(目付)としてアメリカやヨーロッパに行ったのは、一八六〇年のことですからそれより十年も前のことです。どちらが欧米の文明・文化を先に目にしたかは明らかです。帰国した外国奉行軍艦奉行をやり欧米列強とさまざまな交渉をやり、明治四年に横須賀造船所を造ります。その行動や政策を調べていきますと勝海舟とは圧倒的な差があります。今日流布されている勝や坂本龍馬の話などはむしろわたしには講談のように感じます。小栗の国家運営が彼らにとってすり替えられているという感慨も抱きます。もちろん当時としては小栗と勝には身分の差もありますが、勝が書き残した自分の文章に頼りすぎた歴史と人物像ではないかとも思います。彼の存在は慶喜あってのことですが、逆に幕府の終焉を加速させたのは勝ではないかとも考えます。わたしが歴史小説家なら彼の嫉妬が慶喜とともに小栗を亡き者にしたと捉えます。殊更に小栗の評価を低く小さくしているのが現在の歴史のように思えます。それに当時の幕臣の多くは生き残っていて小栗だけは非業の最後を迎えますが、それだけ彼が優秀で怖れられていたということにもなります。榎本武揚にいたっては明治政府の要人になるのですからその差は歴然です。もし彼が生きていたら勝海舟の人物像も今とはまったく別人となっているでしようし、坂本龍馬が歴史にこれだけ浮上してきたかという感情も生まれてきます。薩長政治がやろうとしていたことの先駆者が小栗忠順だと考えます。組織というものは外部からの圧力に対しては一体となって強固に頑張りますが、おおよその組織は内部のいざこざや軋轢で瓦解します。勝と小栗が一枚岩であればまた別の国のかたちが見えていたはずなのですがそうはなりませんでした。人間は理性よりも感情が優先します。