98 なぜ「天主閣」なのか。

自分たちが考える民主主義という理念で政治体系を作ろうとしたということもかもしれません。社会を大きく変えられたということになります。有史上日本は政治制度をいくつか代えています。一番初めは物部氏を中心に自然神道による政治で、それが仏教を信奉する蘇我氏と争ったのが、日本の宗教戦争の始まりとされています。物部氏が勝ちその後仏教による政治が長らく行われるようになりました。家康はそれを儒教に替えて政治を行い、薩長は維新後、天皇中心の神道国家造りをやり敗戦後は「民主主義政治」ということになっています。極端で大雑把な括り方ですが、途中信長がキリスト教の影響を受けた政治をやりますが、もし彼が殺されていなければ政治の形式も世の中も大きく変わったかもしれません。お城になぜ天主(天守)閣かあるか、どうして楽市楽座ができたのか、天主というのはカトリック教会の神のことですが、彼とキリスト教との関りはもっと研究されて公になったほうがいい気がします。因みに「天守閣」は明治から使われだした言葉ですが、なぜ天主閣が天守閣になったのかと想像します。信長は黒人奴隷を武士にしてそばに置いていたくらいですし、宣教師ともよく会っています。そのことはルイス・フロイスの『日本史』を読むとよくわかります。今日の信長の人物像も彼らが詳しく書き残したものの影響が強くあります。もちろん信長の家臣が書いた『信長公記』を初めいくつかありますが、彼の人物像やものの考え方は今の日本人の目から見れば、固定観念で見すぎているのではないかと感じます。それは秀吉にも言えます。朝鮮に侵略したことやキリスト教信者を殺したことなど卑小で残忍な人間に思われがちで、あまりいいイメージがありませんが、わたしはむしろこの人物は日本人にとって大変にいいことをしたと思っています。長崎の大浦天主堂には彼に殺された「日本二十六聖殉教者聖堂」があり、今日ではユネスコ世界遺産に登録されています。その二十六人の聖人は秀吉の命令で磔にされたとされる人々ですが、少し調べていくともっと深い理由があります。