95 困窮していた公家たち。

なにも鍼師の曽祖父から金貸しで財を成した勝海舟の身分をとやかく言うのではなく、どれだけいい仕事をしたかで人物を決めるとすれば、やはりわたしは小栗忠順のほうではないかと考えます。勝家のようにお金で士分になった人物はすでに多くいました。清河八郎は酒造りの子息ですし、水戸藩藤田東湖の実家は古着屋です。新選組の芹川鴨は豪農ですし、今日わたしたちが考えている士農工商の身分はもっと緩かったのではないでしょうか。八代将軍吉宗の母親は農民出の風呂番でしたし五代将軍綱吉の母親は八百屋の娘です。むしろ格式を重んじるようになったのは維新以後の新しい制度からではないかと思ったりもします。奴さんや農民が華族になったのですから権威主義も逆に強くなったのではと想像します。江戸時代には戦争もなく庶民文化が進んでいたのですからお金を持っていた人間のほうが、上辺だけの身分制度よりも実際は優位に立っていたのではではないでしようか。そうでなければ武士を廃業する人々が続出することはないはずです。それは公家でもそうでしょう。当時、二千数百人いた公家たちには徳川家から十万石を与えられていましたが、幕末の財政難には六万石前後しか与えられていなかったことはわかっています。そのうちの半分は天皇家が祭祀や生活費に充て残りを公家たちが分け合いました。彼らの生活は困窮を極めていて、八百屋や魚屋が売り渋っています。お金を払わないから売りたくないのです。何かの折には伴う人間もおらず、彼らを家来として付き添わせたり、まともに着る物もないので仲間と借り回しで済ませたり、襖も障子も張り替えができないという有様です。それらのことは大仏次郎の『天皇の世紀』を読むとわかります。その中でも下級の公家だった岩倉具視たちが維新に懸命だったのもわかります。生活が成り立たなければ必死にならざるを得ません。一石は米十斗つまり百升・千合となります。一升はだいたい一・八リットルです。また一石は米俵二・五俵ですので六万石では十五万俵となります。一俵は六十キロです。その半分の三万俵を二千人以上の公家で食べていくのですから、とても生活ができるものではありません。当時は一日三合を食べると考えられていましたのですぐになくなってしまいます。