94 金銭で武士になる人々。

 

もし徳川慶喜勝海舟の意見より小栗忠順の考えを取り入れていたらまた歴史は変わったはずです。公武合体が現実になったかもしれません。そういう意味では慶喜が自ら歴史を変えたということにもなりますし、勝が徳川を終わらせたということになります。その勝海舟の曽祖父は越後刈羽郡出身の米山検校という人物で、十代で江戸に出てきて鍼医となって財を成しています。検校とは盲目の人のことですが、元は貧農でしたが子の平蔵が旗本の男谷家を継いだことで武士の家系となり、海舟の父親を生んでいます。そして勝海舟が生まれるのですが、旗本といっても三河時代から培ってきた旗本ではありません。同じ幕臣でも明らかに格差があります。それに江戸時代には農民でもお金があれば武士になれました。たとえば農民に帯刀を許すとすれば数十万両、苗字を与えるなら何十万両、藩によって金額は違いますが、だいたい百三十万円から百七十万円前後あれば武士になれたとされます。一両を十万円とすれば千三百万から千七百万円くらいとなります。藩によっては武士になる価格表もあったと言われますから、相当に大っぴらに売買されていたということになります。売買が合意しなければ大幅な値引きもあり半額以下でもなれたと言われています。時代が進むと三分の一の値段にもなって、投げ売り状態にもなっていたようです。農民だった勝家や渋沢栄一らが武士になれたのもそのためです。武士も生活が苦しく廃業する者も多くいたということでしよう。逆に貧しくて三菱の岩崎家はその権利を売ったということになります。そういったことでも小栗家と勝家とは格式が違いすぎますが、海舟が今日言われているように活躍していたとすれば、それは背後に慶喜がいたということになるでしょう。彼の経歴を読んでいくと小栗の政策や先見の明には及んでいなかったという思いになります。交渉術や自分を大きく見せることには長けているように見えますが、今日の「歴史」は勝が書き残した『氷川清話』や勝ち残った者のほうから「歴史」を見ている傾向が強くあります。主戦派の小栗と薩長天皇家に恭順する勝とは、徳川に対する思い入れは当然違うと考えます。仕えた歴史も出身も違います。ただ恭順派の勝と一緒だったということでしょう。