82 良書でも悪書でも目を通す。

まして日本は言霊の国です。なによりも言葉を大切にしてきました。言葉が人生の灯台、言葉が人生の道しるべと言われるのもそのためのはずです。言葉があるからこそ混沌としている世の中の秩序が生まれているということにもなりますし、あらゆるものは言葉によって成り立っていると言われる所以です。「帰化」「来化」「帰朝」という言葉を消してしまい「渡来」としたことは、歴史作家でもある司馬遼太郎氏や歴史学者上田正昭氏、あるいはなにもかも日本のことは朝鮮からきたものだと唱える金達寿氏たちは、言葉を軽んじる歴史修正主義者のように感じてきます。「渡来人」は「従軍慰安婦」と同等かそれ以上罪のある言葉だと個人的には考えています。金達寿氏の小説は好きですが彼の『日本文化と朝鮮』などを読むと、いささか母国に偏重しすぎて逆に歴史を歪めていると感じるほどです。なにもかも朝鮮民族が優秀だという思い込みは両国の歴史認識も間違った方向に向かわせます。それらのことをすり込まれているような日本は、自虐史観とともに自らの造語でその呪縛に取りつかれている気がします。また韓国民の心の底に「恨」という感情があるということは多くの人たちが指摘するところですが、侵略や侵攻をされ続け、ながい従属としての国家、またそうしなければ生きていけなかった宿命、島国と違う生きにくさもあるでしょうが生きるためには自分たちの歴史も消しているのです。その国に歴史認識をしろとわたしたちは再三言われていますが、「帰化」や「帰朝」ということではなく「渡来人」として、島国の日本に文化や政治制度を伝えたと思い込むことこそが彼らのアイデンティティとなっているのではと考えることもあります。それは失礼で傲慢な物言いと気づいていますが自分たちが書き残した歴史書に少し目を通すだけでわかるはずなのに、そうしようとはしません。『三国史記』は読めないということを耳にした時に本当だろうかと驚いたことがあります。一番古い歴史書を読まずなにによって歴史を遡っていくのかと疑問を持ったことがあります。日本の『記紀』に書かれたことでも疑いを持つものもありますが、読んだり確かめたりすれば文字の向こうから改めての疑問や戸惑いは生まれてきますが、それも読むから判然としてくるのです。良書でも悪書でも目を通さなければ比較もできませんと判断もできません。知識もつきません。自分たちの都合のいいことだけを言えるのが歴史認識かという感じにもなってきます。まして前方後円墳好太王碑の書かれた物的証拠まで消して歴史は語れるのかという気もします。この恨という彼らの感情が復讐心に火をつけ自分の命はどうなってもいい、嘘をついてでも陥れたいという感情をイザベル・バードやアーソン・グレブストらに見破られたのではないでしょうか。